曹 操の歴史?政治家として
農政姿勢において曹操の名君ぶりは覗える。他の群雄達が兵糧確保の為に農民から略奪のような事をしていた当時に、曹操は韓浩・棗祗らに提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。この先進的な屯田制が、後漢の群雄割拠の中でそれほど出自的に有利ではない曹操が、他の群雄を退け勝ち残った大きな理由のひとつと言えよう。
屯田以外の曹操の政治上の業績は、強制婚姻による兵雇制度の改革(屯田制と相まって、軍の盤石化に効果を上げた)、権限の一元化によって朝廷内の意思を統一するため三公を廃止して丞相と御史大夫を復活、禁酒法、軍閥の抑制を目的とした地方分権型から中央集権型軍隊への移行、州の区分けを見直す合併独立による再編などである。建安10年(205年)には、世間の頌徳碑建立の盛行および厚葬の風潮を正し、石室・石獣・碑銘などを造り、豪奢な葬礼を行ない墓碑を立てることを禁止する薄葬令を発した(『宋書』「礼志」)。現在の日本の酒造業界において尚行われている「段掛け方式」という醸造法は、曹操が発明した「九蒕春酒法」のことである。曹操が後漢の献帝に上奏した九蒕春酒法の上奏文は現存している。
また、曹操は司空府・丞相府において尚書令の荀彧、中軍師の荀攸らを中心に軍師祭酒による参謀集団を構成し、政策・戦略決定に関与させた(『通典』)。これは明確に制度化された本格的な軍師(参謀)官職としては、世界で初めての事例である(東アジアを中心に古代から参謀を兼する職務の存在自体は確認できる)。同時代の他の群雄と比べても、袁紹、劉表、劉備、孫権らは客将・名士層や豪族を抱きかかえる目的を含めて評定において従えた程度で、対して曹操はより積極的に軍師・参謀を組織的な軍事・政治顧問として用いた。また、建安七士に数えられる陳琳・王粲・阮禹・徐幹ら名文家は曹操の秘書として機密を扱った。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
曹操の政治上の業績はとても素晴らしいもののようです。
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